根源力を養う
瞬時に全方向に反応し、爆発的な力を発揮する。
何物にもとらわれない、自由な心身。
武術の修行で得られる力があります。
それは単純な筋力ではありません。
太気拳が他の武術と最も異なる点は、その力を養うための稽古として、
外見上はひたすら立つだけの「立禅」を取り入れたことにあります。
立禅とは気功の一種で中国では站椿と呼ばれています。
ボールを抱くように手を挙げ、膝をゆるめてただ立つ、気功を源流とした稽古法です。
気功には長い歴史があります。
出土した二千年前の壺に気功をする人物が描かれています。
何か効果がなければこんなに長期間、ある技法が伝承されることはありません。
実際に試してみると様々な感覚が生じます。
古来から伝わる表現でいえば、気を養い爆発に備えている状態です。
弓矢を引き絞った状態とも表現されます。
野生動物が獲物に飛びかかる瞬間のような、ゴルゴ13が標的を狙っている瞬間のような、と表現できるかもしれません。
極度に集中しつつ最適なリラックスを保っている状態です。
気功と聞くとリラックス法をイメージされるかもしれません。
しかしそれでは気功の効果を半分しか表現していません。
もしリラックスをしたいのであれば寝転んだ方がよりリラックスできるはずです。
腕を挙げ立っているのですから必ず緊張している筋肉や神経があります。
その中でリラックスした感覚を探ってゆくので、気功は「最適な(=最小限の)緊張状態」とも表現できます。
しかし現代社会において人間はいつも緊張しています。
ですから実際の稽古ではとにかくゆるめることを主体にするのですが。
太気拳で求める立ち方をすると、身体は全方向に爆発的に動く準備が整います。
それは気が指先まで満ち満ちた、充実感と静けさを伴います。
なんとも言えない心地よささえ感じます。
ではなぜ全方向に、はやく力強く動くことができるのでしょうか。
気が満ちているから、と言えば簡単なのですが、我々現代人にはどうも納得がいきません。
私自身、現代的な教育を受けて育っているので、合理的な納得がなければ貴重な時間を割くことなどできません。
ですが気功や武術の本を調べても、気や意の力、丹田がどうだ、といった昔ながらの説明がほとんどです。
そこでこの感覚を私なりの3つの観点から分析しようと思います。
ひとつめに、「神経の使い方」
脳の指令が筋肉に伝わることによって身体は動きます。
その脳と筋肉をつなぐのは神経。
太気拳ではこの神経の伝達を重視し、感覚を研ぎ澄まします。
ふたつめには、物理で学んだ「作用反作用の法則」。
身体を重さのある物質として捉えた、物理的な説明です。
最後に、「相対と絶対」。
物事の認識の仕方、心理面、感覚面を通して立禅を考察します。
神経の使い方
まずは「神経の使い方」についてです。
脳からの「動け」という指令は神経を経由して各筋肉に伝達されます。
我々は意念(イメージ)を用いることによってこの間のタイムラグを短縮するような、爆発的な動きを生む訓練を立禅の中で行っています。
100m走のスタート直前、選手達は前方に向かって飛び出す準備を整えています。
この状態を前方だけでなく四方八方に向かって維持している、そのような訓練です。
100m走のスタートと異なるのは、前方だけではなくあらゆる方向に集中し、筋肉には極力力を入れない、という点です。
立禅は完全なるリラックスではなく、このような緊張状態を内包した緩みであると言えます。
四方八方に対して意識が配られた、高度に覚醒した状態です。
100m走のスタート直前のように神経を張り詰めたレベルから、周囲をただ感じている、というレベルまでいろいろな緊張レベルで脳ー神経ー筋肉の連携を高めてゆきます。
身体中の神経に「意(心、意識)」を通し、知覚を張り巡らせ、動く準備を整えることは建物にセコムをかけることに似ています。
建物の中にいる人は警戒システムに守られているからこそ、心から落ち着けるのです。
神経が警戒態勢をとることにより、逆に心には平安がある。
不思議な矛盾した状態が立禅を通して感じられます。
それはアスリートが試合中の緊張状態の中で感じる、静かな心境に似ているのかもしれません。
100m走のスタート時のように極度に神経を通し、筋肉は逆にリラックスした状態。
意と神経をどの程度緊張させるかは状況に応じます。
F1レーサーの集中状態と、高僧が座禅を組んでいるときの集中状態、
共通した点が認められながらも別の状態であるのと同じです。
戦いのときと平静のとき、そのときどきに応じた神経の調整を訓練することが目的のひとつです。
この訓練を通し、あらゆる方向に対して備えている状態を維持することが可能となります。
動こう、と思ったときに脳から筋肉へ指令を出すのではなく、動こう、と思ったときにはすでに動いている。
「速い」のではなく「早い」
思った途端に動いている「意到力到」の境地です。
このような喩えがあります。
「思いは光よりも速い。月を思えば、もうその瞬間に月にいる。」
意が身体中に行き渡りいつでも自由に動くことができる。
しかも心は静かな水面のように澄んで落ち着いた、そんな状態を訓練しているのです。
作用反作用の法則
次に「作用反作用の法則」という観点から考察します。
作用反作用の法則とは、壁を10kgの力で押したとき(=作用)、壁は同時に、自分に向かって10kgの力で押し返している(=反作用)という状態を表したものです。
身体には重さがあります。
重さがあるということは、地球上で立っている場合は「その場に留まろう」とする力が働いているということです。
そのため身体を動かそうと思えば、一定以上の力が必要です。
ここで身体が動き出す直前の静止している状態を考察します。
身体はある力(=重さ)でそこに静止しています。
筋肉にその重さと同じだけの力を入れても身体はそこに静止したままです。
それよりもう少し、力を加えるとやっと動きだします。
このような、力の均衡が崩れ動き出す寸前の状態を観察すると、力を加えた方向とは反対方向の力で身体は動くまい、としていることが分かります。
太気拳の基本訓練である立禅では、ボールを抱くように腕を挙げています。
このイメージのボールをつぶすように腕を動かすとき、腕という重さのある物体には、その場から動くまい、とする一定の力(=重さや筋肉の張力)が働いています。
そしてその力は、(実際に腕が動き出すまでは)自分がボールをつぶそうとした力と全く同じで、かつ反対方向に働くのです。
筋肉の感覚(医学的には深部感覚といいます)を通してその状態を感じてみると、
「腕の中にボールがあるかのような弾力」
が生じているのです。
実際、初心者の方でも立禅をしていると腕の中にボールのような抵抗感を得られることがあります。
それを一般的な気功教室や武術道場では、「そのボワボワした抵抗感が気です!」といった説明をすることがあります。
もちろんそういう現代科学で解明されていない不思議な力があるのかもしれません。
しかし私はこのような物理的に説明できる現象の方がこの感覚に大きく関係していると長年の経験から感じています。
そしてこのボールの弾力の正体が、いわゆるなにか「神秘的な気」でないからといって気功の価値が下がるものではありません。
むしろより一層、科学的にも効果が証明されるはず、という確信が私の中で生まれました。
話がそれてしまいました。
「私がボールをつぶそうとする」動きを丁寧に観察すると「ボールがそれに抵抗して押し返している」という感覚を筋肉を通して感じることができます。
これは「そんな気がする」、「気のせいだ」ということではなく、実際に存在する腕自身の重さとその動きを感じているだけです。
これを一般化して表現すると、
ある方向へ動こうとすると、反対方向へ同じだけの抵抗が生じる、そしてその抵抗を抵抗感として筋肉は(深部感覚を通じて)感じる。ということです。
「作用反作用の法則」や「重さ」を認識することによって、力が二つの方向に同時に生じていることがわかりました。
そしてそれが、立禅や気功の稽古中には身体の周りを覆う「気」や「水」や「バネ」のような抵抗感として感じられるということがご理解頂ければと思います。
相対と絶対
最後に、「相対と絶対」という視点からこの状態を考察します。
作用反作用の法則によって生じた感覚(=抵抗感)を立禅を通して体感すると、あるひとつの動きが二つの感覚として感じられるようになります。
すなわち、
「前に動こうとする」ということは、前から押されている、ということ。
つまりは「後ろに動こうとする」ということ。
「右に動こうとする」ということは、右から押されている、ということ。
つまりは「左に動こうとする」ということ。
例えば壁を押す場合です。
「壁を押す」と同時に全く同じ力で「壁に押されて」います。
このとき、通常であれば「壁を押す」という認識・感覚しかありませんが、
「壁に押されている」という認識をすることもできます。
そんな感じ方は普通ではないかもしれませんが、物理的に誤りではありません。
「立禅をしている場合、実際には壁やボールはないじゃないか。」という疑問が湧くかもしれませんが、上述の通り、壁やボールの抵抗に相当するのは、自分自身の重量や筋肉の張力など、自分そのものなのです。
決してイメージや妄想の話ではなく、自分自身の動きと重量を精緻に知覚するという訓練をしているのです。ボールや壁をイメージするのは知覚を生じさせるきっかけにすぎません。
壁を押す例に戻ります。
「壁を押す」という意識を持ったとき、壁を突き破る方向の力が生まれます。
逆に「壁に押されている」という意識になったとき、腕を引き戻す方向の力が生まれます。
ルビンの壺というだまし絵があります。
真ん中の黒い部分を見ると壺に、両側の白い部分を見ると向かい合った人の顔に見えるような絵です。
この感覚に似ています。
前に押してると思えば、前を押しているように感じます。
後ろに引いていると思えば、後ろに引いているように感じます。
ですが、これは通常のように「前へ!」と思ってから前向きに力をいれる、
「後へ!」と思ってから後ろ向きに力をいれる、という状態とは異なります。
すでに力はそこにあって、認識の仕方によって前にも後ろにも瞬間に変化するのですから。
これが、動きが「速い」のではなく「早い」ということです。
思った瞬間に動いている。
「意到力到」
反射神経の話ではありません。
つまり実際のところは相対的な「前への力」「後への力」などはなく、ただそこに「力」が存在しているだけ、という感覚が生じます。
それを人が勝手に前向きの力、後ろ向きの力、と思い込んでいるだけなのです。
実はその力は、前向きの力でもあり、後ろ向きの力でもあるのです。
この「相対的な力」として表現される前の状態。
これを私は「絶対的な力」と呼称しています。
この感覚があると、前に動く、後ろに動く、が自由になります。
壁を押して前にいく、後ろに下がるという状態なので、壁がないときよりも速く、強くなります。
弓矢を引き絞って放つような、タメの効いた状態です。
タメとは反対方向への力、すなわち抵抗感です。
そのタメを効かせるための抵抗感を、自分の身体自体の重さと、意識で生み出しているのです。
打撃においてタメをつくるのは大きな力を生み出す反面、動きを読まれてしまうという欠点があります。
しかしこのタメは、意識と身体の中にあるものであって、外には力・はやさとしてしか現れない、素晴らしい力です。
この感覚がでてくると、身体中が弓を張ったように、または四方八方から押されているように、逆に引っ張られているように感じます。
「押す」は「押される」である。
これが体感されると、
「ボールを潰す自分」という主観的立場と「私につぶされるボール」という客観的立場、どちらにも自由にシフトすることができます。
つまり立禅は、自分の状況を主観的立場と客観的立場、両方から認識している状態と表現することもできます。
力は「←」や「→」単体としては存在せず、
「←→」であると知覚し、そのように心身を運用できること。
その為には力に方向が生まれる前の状態で身体に蓄えられていることが肝要です。
そして身体がそのようである、ということは、心・意識がそのようである、ということです。
心が楽しければ顔は微笑む。心が前に行こうと思えば身体は前に動く。
このようにほとんどの場合、心と身体は同じ方向に向いているので、身体を通して相対と絶対の合一がなされたとき、心もまたそのようになります。
そしてこの相対と絶対、主観と客観が合一した世界こそが世界の実相により近いものではないでしょうか。
卑近な例ですが、「お前、なんで浮気するねん!」と私が怒ったとします。
そのとき、相手が
「アンタが相手してくれないからよ!」と言い返してきました。
このように自分の主観的な「浮気をされた」という事実認識だけでなく相手からの「相手をしていない」という客観的な情報が加わることによって、世界はより真実に近い世界を表しました。笑
半ば冗談のような例えですが、半ば真面目です。
主観と客観の合一、能動と受動の合一。
同じ現象を反対の立場から知覚すること。
物事を多方面から観察する立場。
そして相対から絶対へ。
このような多角的な視点を太気拳の稽古を通じて体感として、皮膚感として会得することができます。
後ろに引いていると思えば、後ろに引いているように感じます。
ですが、これは通常のように「前へ!」と思ってから前向きに力をいれる、
「後へ!」と思ってから後ろ向きに力をいれる、という状態とは異なります。
すでに力はそこにあって、認識の仕方によって前にも後ろにも瞬間に変化するのですから。
これが、動きが「速い」のではなく「早い」ということです。
思った瞬間に動いている。
「意到力到」
反射神経の話ではありません。
つまり実際のところは相対的な「前への力」「後への力」などはなく、ただそこに「力」が存在しているだけ、という感覚が生じます。
それを人が勝手に前向きの力、後ろ向きの力、と思い込んでいるだけなのです。
実はその力は、前向きの力でもあり、後ろ向きの力でもあるのです。
この「相対的な力」として表現される前の状態。
これを私は「絶対的な力」と呼称しています。
この感覚があると、前に動く、後ろに動く、が自由になります。
壁を押して前にいく、後ろに下がるという状態なので、壁がないときよりも速く、強くなります。
弓矢を引き絞って放つような、タメの効いた状態です。
タメとは反対方向への力、すなわち抵抗感です。
そのタメを効かせるための抵抗感を、自分の身体自体の重さと、意識で生み出しているのです。
打撃においてタメをつくるのは大きな力を生み出す反面、動きを読まれてしまうという欠点があります。
しかしこのタメは、意識と身体の中にあるものであって、外には力・はやさとしてしか現れない、素晴らしい力です。
この感覚がでてくると、身体中が弓を張ったように、または四方八方から押されているように、逆に引っ張られているように感じます。
「押す」は「押される」である。
これが体感されると、
「ボールを潰す自分」という主観的立場と「私につぶされるボール」という客観的立場、どちらにも自由にシフトすることができます。
つまり立禅は、自分の状況を主観的立場と客観的立場、両方から認識している状態と表現することもできます。
力は「←」や「→」単体としては存在せず、
「←→」であると知覚し、そのように心身を運用できること。
その為には力に方向が生まれる前の状態で身体に蓄えられていることが肝要です。
そして身体がそのようである、ということは、心・意識がそのようである、ということです。
心が楽しければ顔は微笑む。心が前に行こうと思えば身体は前に動く。
このようにほとんどの場合、心と身体は同じ方向に向いているので、身体を通して相対と絶対の合一がなされたとき、心もまたそのようになります。
そしてこの相対と絶対、主観と客観が合一した世界こそが世界の実相により近いものではないでしょうか。
卑近な例ですが、「お前、なんで浮気するねん!」と私が怒ったとします。
そのとき、相手が
「アンタが相手してくれないからよ!」と言い返してきました。
このように自分の主観的な「浮気をされた」という事実認識だけでなく相手からの「相手をしていない」という客観的な情報が加わることによって、世界はより真実に近い世界を表しました。笑
半ば冗談のような例えですが、半ば真面目です。
主観と客観の合一、能動と受動の合一。
同じ現象を反対の立場から知覚すること。
物事を多方面から観察する立場。
そして相対から絶対へ。
このような多角的な視点を太気拳の稽古を通じて体感として、皮膚感として会得することができます。
日本においては武術修行が人間の修養として重視されてきました。
幕末の偉人、勝海舟も「本当に修行したのは剣術ばかりだ。」という言葉を遺しています。
武術が人格の修養にふさわしいとされるのは単に厳しい修行に耐える力を養うような、根性論ということだけではなく、このような真理を理屈ではなく身体を通して知覚していくところにあるのではないでしょうか。
太気拳は実戦を重んじる武術です。
実戦的、というのは型にとらわれず、相手がどのような動きをしたとしても自由に対応できるということです。
前に行こうと思うとき、後ろに行く、という動きが含まれていれば、
組手においてより自由にとらわれることのない、居着かない動きになります。
そして前に行こうと思うとき、前から抵抗感があれば、弓を射るような爆発力が得られます。
このように絶対的な力を内包し相対的な力として活用できるとき、身体は物理的な力、速さ、全方向性を発揮し、そして心は何物にもとらわれない自由さを獲得するのです。
以上、「神経の使い方」、「作用反作用の法則」、「相対と絶対」という3つの観点から太気拳の稽古を通じて養う根源的な力の一端を説明しました。
古代中国の思想家、荘子の言葉を引用します。
「彼は是より出で、是は彼に因る。彼と是とならび生ず。」
(荘子 斉物論篇)
「是(コレ)という概念があるから彼(カレ)という概念がある。是は彼という概念があってはじめて成立する。彼と是は一方があってこそ生じる概念である。」
立禅をしていると、この荘子の哲学的な言葉を以下のように身体的感覚を通して理解します。
「右への力」があるから「左への力」がある。「右への力」は「左への力」によっている。
右への力と左への力は一方があってこそ生じる概念である。
自分の身体に生じた感覚を通して古人の哲理を体認するのです。
護身と養生。
自由な心身。
そのための「相対から絶対へ」という本質的なシフト。
武禅会の中核をなすコンセプトです。
非定期にセミナー予定や武術の話を中心に活動内容などをお知らせいたします。武術のコツ、少し踏み込んだ練習内容などもお伝えしています。
先人の遺してくれた貴重な文化遺産である太気拳の楽しさと奥深さを分かち合えれば幸いです。
ご希望の方はこちらからメールアドレスをご登録下さい。