恐怖と武術

December 28th, 2010

扁桃体の損傷により「恐怖」を感じることができない女性
http://gigazine.net/news/20101225_fearless_without_amygdala/
恐怖とは、身に迫る危機を察知し未然に防ぐ為に、なくてはならない本能です。
この記事の例をとっても、暴漢に恐怖を感じることなく近づいていくということが、女性にとって無謀・危険であることは明白です。

では、何を恐怖として、何を恐怖としないか。 それは人それぞれです。
私はヒマラヤで遭難して遺書を書いた経験があるので、それ以来、雪山が恐いんです。
このような過去の個人的な経験、トラウマにもとづくもの、そして本能に刷り込まれたもの。
進化心理学という分野があります。
進化論が、「生物は環境に適応して進化する」(キリンは高いところの葉を食べたかったから首が伸びた)と説くように、進化心理学は、「心や感情も環境に適応するように進化する」と説いています。
その進化心理学によると、今の人間の心理状態は、未だ石器時代とのこと。
環境の変化があまりにも速い為、進化が追いついていないそうです。

宇宙旅行がすぐそこにある現代でも、心の中は、肉食獣に襲われていた人達と同じ構造なんです。
つまり、身を守る為の恐怖というスイッチが、未だ石器時代仕様であるということ。
夜寝るときに火を絶やしたら、オオカミが襲ってくるかも!っていうスイッチです。
そのスイッチが現代社会向けでないことが、本来であれば不要なはずの、漠然とした不安であったり将来に対する恐れにつながっているように思えます。
(ここでは「恐怖」の軽いものが、「不安」とします。実存主義哲学のハイデッガー、キルケゴールは、不安とは特定の対象への恐怖とは異なる、と言っているそうですが。)

武術とは自身や家族を守る為に発達したもの、命や所有物を奪われる「恐怖」に対抗する為に自然発生的に生まれたものでしょう。
恐怖を消すのではなく、存在することを認識しつつも、身体と心がそれにとらわれることなく自在に動く。
こんな境地を目指し、日々肉体と精神を鍛える武術は、現代においては護身(心)術となり、武道となり、形を変えながらもますます重要になってくると感じるのです。
雪山のトラウマを無くす為、年末年始はニセコに篭もってスキー三昧です。(^^)